2021年1月21日

【政治史4】吉田茂の宿命のライバル『鳩山一郎』

実に5度も総理大臣に指名され、6年2ヶ月もの長期政権を打ち立てた吉田茂総理大臣は、サンフランシスコ講和条約でアメリカからの日本の独立を果たし、日米安保条約で軍事費をかけずに平和と安定を享受しながら奇跡的な経済復興を遂げるきっかけとなる状態を作り退陣しました。

すると次には吉田のライバルであった鳩山一郎が総理大臣になります。

名字からお気づきかもしれませんが、2009年に民主党から総理大臣になった鳩山由紀夫さんの祖父です。

 

もともと一郎は終戦後の与党の自由党の総裁をしていて、そのまま総理大臣になるはずだったんですが、総理大臣の任命を受けに天皇陛下の前にいくまさに直前でGHQから公職追放されてしまいます。

天皇陛下に会うたった2時間前に公職追放の手紙が届いて、突然無職になってしまったのです。

 

日本主導ではなくGHQが日本政府の頭越しに直接追放したのは鳩山一郎が第一号でした。GHQの「俺たちの占領政策に非協力的な態度を取ると総理大臣だってこうなるぜ!!」という見せしめだったといわれています。

 

追放された一郎は、仕方がないので自分の代わりに吉田茂に自由党の総裁と総理の座を譲りました。

その際にあまり乗り気じゃなかった吉田茂に、「自分が戻ってきたら総理と総理の座を返していいから」と約束したのだそうです。

それから6年以上が経ち、一郎もやっと政界に復帰できたので、総理と総裁の座を返してもらおうと吉田茂に迫りますが、吉田茂はなぜかこの申し出を断固拒否!

ちょっと前に脳溢血で倒れていた一郎をからかうように「病人には政権を任せられんなぁ」と言って無視しました。

 

権力は人を変えてしまうんですね。

 

そのあと「吉田茂なんかと一緒の党にいれるか」と鳩山一郎は自由党を飛び出して、反自由党の議員を集めて日本民主党を結成しました。

そして1954年に吉田茂が国会で不信任されると次の選挙で勝利を収め、日本民主党は与党になり、一郎はねんがんの総理大臣になりました。

 

吉田茂の逆をいく鳩山総理

そんな経緯で総理大臣になった鳩山一郎でしたので、吉田茂総理のときの反対の路線で政治をします。

 

吉田茂が憲法9条を盾にアメリカに国防を任せる日米安保条約を結ぶなら、鳩山一郎は再軍備を目指します。

吉田茂がサンフランシスコ平和条約でアメリカと仲良くするなら、鳩山一郎は『日ソ共同宣言』でアメリカの敵であるソビエト連邦と仲良くします。

 

ソ連と仲良くすると日本を防衛しているアメリカの機嫌を損ねちゃいますけど、そんなの一郎には関係ありません。

なんせアメリカに公職追放されたせいで総理大臣になれませんでしたからね。

しかし、そうしたおかげでアメリカ寄りの吉田茂ができなかった問題を解決できました。

 

『日ソ共同宣言』1956年10月19日

実は吉田茂が1952年にサンフランシスコ平和条約で連合国と平和条約を結んで日本の主権を回復したとき、ソ連はアメリカと仲違いをしていてこの条約に調印していなかったんです。

つまり終戦してからもソ連と日本とはずっと戦争状態だったわけです。

 

だから北海道で船を出して漁をしているとソ連の巡視船に捕まったし、

終戦直後ロシアにいた日本人はみんなシベリアの収容所に送られてひどい強制労働させられていましたし、

終戦間際にぶんどられた北方4島は返ってこないし、

そのうえ日本が国際社会に復帰しようとして国連に加盟させて欲しいとお願いをするたびに、ソ連が拒否してなかなか加盟させてもらえませんでした。

 

しかし鳩山一郎はこの『日本ーソビエト共同宣言』でこれらの問題を解決します。

 

日ソ共同宣言の実績

 ・戦争状態の終結と外交関係の回復・ソ連の賠償放棄

 ・日本の漁業権の承認

 ・シベリア抑留者帰還 

 ・ソ連に占領された北方4島のうち、歯舞と色丹の2島返還

 ・ソ連が国連加盟を支持してくれたので、日本は国際連盟に加盟できた

 

 

自由党+民主党=自由民主党の誕生!!

鳩山政権の時代、日本でもソ連や中国の影響を受けて共産主義や社会主義が流行っていました。

戦後の焼け野原でビッグチャンスをつかんで大金持ちになる人もたくさんいましたが、多くの人は貧乏なまま。

大変な格差のなか、少なくない人がお金持ちにこき使われるよりは革命を起こしてみんなでわけあう共産主義社会になった方がマシだと考えるようになったためです。

 

政界で吉田茂と鳩山一郎が権力争いをしている間に、その人たちの支持を背景にして共産主義的な社会党が大きな力を持ってしまっていたのです。

鳩山総理のときには自由党と民主党が同じくらいの強さだったので、国会で何か決める際は自由党、民主党についで3番目に強い社会党がどっちの味方につくかで意見が通る側が決まるようなパワーバランスになっていました。

戦後の社会党は左派と右派で派閥争いをしていたのですが、1955年10月13日に左右両派が合併し、日本で2番目に大きい社会主義勢力『日本社会党』が誕生してしまいます。

 

この完全体パーフェクト社会党が力をつける前に何とかしないと、日本がソ連みたいな共産主義国家になってしまうかもしれない!!

ということで、ライバル同士の自由党と民主党が手を結び合体!!

 

ここに単独で国会議席の過半数を占めるマンモス政党『自由民主党』が誕生しました。

国会は基本的に国会議員の多数決で物事を決めるので、半分以上が自由民主党ならどんな法案でも通し放題です。

 

 

日本の政治の安定期:55年体制の確立

 

1955年10月13日:日本社会党結成

           11月15日 :自由民主党結成

 

こうして生まれた二つの巨大政党は、合わせると国会の全議席の9割を占めることになります。

社会主義を目指す社会党と自由主義の自民党、主義主張はお互い敵同士ではありますが、政局は奇妙な安定をします。

 

社会党は憲法9条を守りたいので34%の議席が欲しい(憲法改正のための話し合いを始めるには3分の2の議席が必要…つまり、3分の1の議席さえ押さえておけば憲法改正は阻止できる!!)。

自民党は政権を守りたいので51%の議席が欲しい(50%以上の議席を持っていれば、多数決で絶対に負けることはない!!)。

 

ということは、両党合わせて9割の議席を保てば、お互いの目的は達成され続けるわけです。

 

なのでここから38年間、自民党が与党、社会党が野党第一党で、国会では論戦するけど裏では協力し合っているという共犯関係が続くことになりました。

この体制のことを1955年から始まったことから、

 

『55年体制』

といいます。

社会党が協力し続ける限り絶対に与党で居続けることができる自民党。

 

自民党が絶対に政権を握るなら、国民の人気よりも党内の人間関係のほうが大事になっていきます。

ここからしばらく日本の政治は自民党内の派閥争いの中で進んでいくようになります。

 

そんな中で絶対与党自民党が、戦後はじめて総裁選挙を行います。

自民党のリーダーを決めるための選挙です。つまり総理大臣を決める選挙です。

投票するのは国民ではなく自由民主党所属の国会議員たち。

国政選挙ではないので公職選挙法も適用されません。

つまり、あっさり終わるわけがありません。

 

国会議員間の複雑な人間関係とルール無用の総裁選を制して自民党の総裁、総理大臣になれるのは誰なのか、次回は1956年4月に行われた第 1回自民党総裁選挙から始まる記事になります。

 

近現代史シリーズ