2021年1月26日

【政治史5】一体どうなる? ルール無用の総裁選挙

55年体制を確立し、野党の社会党と政権維持のための共犯関係になった自由民主党は、1956年に自分たちのリーダーを決める総裁選挙を行います。この総裁選は総理大臣を決めるための選挙でもありました。

政治家になるなら誰でも一度は総理大臣になっておきたいですよね?

 

この選挙には3人の候補者が立候補しました。彼らはそれぞれ自分の派閥を率いる一派のボスです。

※自民党の派閥≒ル自分のところのボスを総理大臣にするための国会議員の集団です

 

 

昭和の妖怪『岸信介(きしのぶすけ)』

岸信介はのちに“昭和の妖怪”と呼ばれることになる大政治家。

1896年に山口県山口市に父・佐藤秀助と母・茂世の間に生まれました。

叔父の松岡洋右は近衛内閣の外務大臣。

両親は酒造業を営んでいて裕福だったようです。

とにかく頭が良かったらしく、中学生のときにイギリス人の家庭教師から英語を学び、高校から東京帝国大学(現在の東大)にストレート合格。そしてそんなに勉強してないのに成績2番目、次席で卒業します。

 

また勉強だけでなくテニスや野球もできる文武両道。漢詩も読めるし落語だって聞いちゃうシャレのわかるヤツです。

マンガにでてくるいけすかない主人公のライバルみたいな完璧超人ですね。

 

そして当時イケてるやつはみんな目指した官僚試験を圧倒的点数で突破。誰もがいちばんチカラのある大蔵省を目指すべきところを「これからは産業政策だ!」とマイナーな農商務省(現在の通商産業省)に就職。

当然仕事もできたのであっという間に上りつめて当時中国にあった満州国という日本の傀儡国の経済を掌握。

官僚として一国の経済を握る超絶地位を築くもときは太平洋戦争も末期。

有能すぎて将来が見えていたのか一億総玉砕の同調圧力にノれなかったのか、当時の東條英機内閣に

 

「この戦争、絶対勝てないからこの辺で講和しましょ」

 

と正直に進言をして怒りをかって、辞めるようにプレッシャーを掛けられるようになってしまいます。

しかし岸より上手くやれるヤツが他にいなかったので東條総理も岸をクビにできずに、逆に岸が東條を総辞職に追い込みました。

 

圧倒的です、岸信介。

 

そして8月15日、太平洋戦争に敗戦。

このとき岸は占領しに来たGHQに、東條内閣のときに商工大臣をやっていたという罪で巣鴨プリズン(拘置所)にA級戦犯容疑でぶち込まれます。

しかし

 

岸「私は東條内閣と戦ったんですよ!」

 

GHQ「そうだね」

 

と釈放されます(でも太平洋戦争開戦の詔書にサインしたのは岸なので、このあとも国民からはずっと戦争を最初にはじめた『A級戦犯』扱いされ続けます)。

そして自由党に入り、鳩山派からこの選挙に打って出ました。

 

 「経済復興最優先、それから対米協調と自主憲法を制定するぞ!」

 

 

言論を曲げるくらいなら、自分の会社を潰す!!『石橋湛山(いしばしたんざん)』

石橋湛山はジャーナリストとして政治家として、最後まで自分のスタンスを保った政治家です。

政治家になる前はジャーナリストとして東洋経済新報社の代表取締役をしていました。

※東洋経済は、朝日新聞など他のマスコミが時代の空気を読んで戦争を賛美するなかでも『真実の報道を』と戦前から独自の切り口で国内外に情報を発信し続けました。

 

しかしこの石橋湛山、敗戦後にGHQから公職追放されてしまいます。

戦前戦中から日本の軍部と戦い続けてきたのになぜ追放されたのかというと、GHQとも戦ったからです。

戦後の吉田茂内閣のときに大蔵大臣になった石橋は、当然日本の早い復興のために経済を回そうと積極財政策をしようとしたのですが、日本を弱いままにしておきたいGHQの方針と真逆でした。

結果色々理由をつけられて追放されたのですが、朝鮮戦争でGHQの日本を弱いままにしておく方針も変わって公職追放が解け、政界復帰しました。

 

石橋湛山も岸信介もどっちもまえの総理大臣の鳩山一郎の派閥だったのですが、岸信介がアメリカの力を利用して経済復興をしようとしているのに対して、石橋湛山はアメリカに媚びないで自主憲法制定、自主防衛をしようとしたという違いがあります。

 

「アメリカに媚びない政治をするぞ 経済の復興が最優先」

 

 

鳩山派と自民党を二分する吉田派閥のボス『石井光次郎(いしいみつじろう)』

残る最後の3人目の政治家は石井光次郎(いしいみつじろう)。

自民党の吉田茂派閥を受け継いだ最大勢力です。

単純に考えたら自民党の半分の鳩山派を二人で分け合った岸と石橋よりも、吉田派をひとりで受け継いだ石井光次郎が有利そうなのですが、キャラが弱かったのか何なのか、選挙は混戦となりました。

 

総裁選挙はやりたい放題

自民党の総裁選挙は、国民が国会議員を選ぶ選挙の時と違って公職選挙法の縛りがありません。逮捕されることを考えずに全力で勝ちにいけます。

それに戦前にさかのぼって考えても、日本では誰も与党のリーダーを選挙で決めたことがありませんでした。なので

 

「総裁選に公職選挙法は関係ない! 金は好きなだけ使え!」

「岸は1億、石橋は8千万、石井は5千万使った」

「飲ませ!食わせ!渡せ!投票まで監禁しろ!」

「石橋陣営は5人に通産大臣、8人に農林大臣を約束したらしい。…全員の約束を実現するのに30年はかかるよ!?」

 

こんな感じでみんな加減がわからず、やりたい放題はっちゃけた選挙活動が行われたそうです。

その結果、中間選挙まえの予想では岸信介が圧倒的に優勢、石橋湛山と石井光次郎の二人は単独では勝てそうにない状況になりました。

 

 

選挙参謀の冴えた作戦とあっけない退陣(みごとな引き際)

そんな中で石橋湛山(いしばしたんざん)の選挙参謀である石田博英(いしだひろひで)が、石井光次郎(いしいみつじろう)推しの田勇人(けだはやと)に提案します。

 

「このままじゃどっちとも岸さんに勝てないんで、中間選挙で3位になった方が2位の候補者を応援するようにしませんか?」

 

2位3位連合を組まないかという申し出です。

池田勇人はこの申し出に乗りました。石井光次郎も説得しました。

 

結果

第1回投票 岸223票 石橋151票 石井137票

決選投票 石橋258票WIN!! 岸251票

 

この2位3位連合作戦がうまくいって本命の岸信介は落選。

中間選挙で2位につけていた石橋湛山がみごと第55代総理大臣になりました。

 

 

しかしこのあと石橋湛山が病気になって、就任後たった65日で退陣。

タナボタで総理になったあの男が現在まで日本の政治に影響を与える大きな仕事をやってのけます!!

 

いったい誰が何をやったのでしょうか??

 

 

 

 

それでは次回『岸信介が政治生命を賭けた日米安保改正(仮題)』に続きます!!

近現代史シリーズ