2021年2月2日

【政治史6】“昭和の妖怪”岸信介が政治生命を賭けた安保改正

【前回までのあらすじ】

ソビエト連邦の圧力、爆誕した中華人民共和国、朝鮮半島でぶつかった自由主義勢力と共産主義勢力。

アメリカの方針転換と朝鮮特需によって経済復興が始まった日本ではあったが、儲かるのは一部の資本家ばかり。

不満を覚えた庶民たちの間で共産主義が流行し、勢いを得た共産・社会主義政党の『日本社会党』が巨大化。

危機感を覚えた日本の主流政党『民主党』と『自由党』は社会党に対抗するために手を結び、合体して今日まで続く日本与党『自由民主党』になりました。

そして行われた初の総裁選挙。

 

議席の半数以上を占める自民党の総裁選挙は実質総理大臣を選ぶ選挙でした。

公職選挙法の適用されない総裁選挙は大荒れしましたが、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人の候補者の激闘の末に選ばれたのは石橋湛山でした。

 

 

石橋湛山内閣組閣、人事はどうなるの?

最有力候補だった岸信介を倒すために石井光次郎派閥と手を組んだ石橋湛山。

内閣人事も選挙に功績のあった石井派閥から多く選ばれました。

 

まず自分の派閥の三木武夫は党をまとめる幹事長

勝利の2位3位連合作戦を実行した参謀石田博英は内閣のNo.2官房長官

石田の策に乗って自分の派閥のリーダーを説得してくれた池田勇人は1番強い大蔵大臣

自分の派閥の功労者と協力派閥の有力者に役職を振り分けました。

 

選挙に負けたとはいえ党内で支持のある岸信介は副総理格の外務大臣にしました。

※協力派閥のボスの石井光次郎と自分とこの腹心の大野伴睦は人事に不満で即日反主流派になりました。

 

 

流れをつかんだ岸信介

外務大臣として内閣にむかえいれられた岸信介ですが、選挙のとき岸を支持した人たちからは「自分のライバルのところに入閣していくなんて、岸は腑抜けか!?」というふうに揶揄されていました。

しかしそんな声に負けずに耐えていた岸は、ついにチャンスを掴みます。

 

石橋湛山総理大臣が病気になって、たった65日で退陣することになったのです。

 

このときの岸は副総理格の外務大臣。

副総理格ということは総理に何かあったとき、次に総理になるということです。

 

思わぬ幸運で総理大臣になれた岸ですが、支持者に陰口を叩かれてでも入閣したのには理由がありました。

岸は自分が総裁選に出たときも公約にしていた自主憲法の制定と日米安全保障条約の改正をどうしても行いたかったのです。

 

 

岸信介内閣誕生。そして悲願の日米安保改正へ

 

石橋「自分はかつて(暗殺されかかって体を壊した)濱口雄幸総理に退陣を迫った。あのときの濱口と同じ状況になった自分が居座ったら、読者たちに嘘をついたことになる」

 

潔く退いた石橋の跡を継いだ岸は閣僚(大臣たち)は全員留任し、自分が繰り上がって空いた副総理のポジションに選挙3位で離脱していた石井光次郎を迎えて有力三派閥のボスが揃ったオールスター内閣を結成。悲願であった日米安保改正に取り掛かります。

 

1951年に吉田茂が結んだ日米安保条約では

・日本の内乱に米軍が介入できる。

・期限がないので米軍が永久に駐留することができる。事実上の永久占領体制になっている。

 

という欠点がありました。

吉田茂はのちに振り返って「あのときはまずは独立したという事実が必要だった」と語っています。

この日米安保をどうしても岸は改正しておきたかったのです。

 

岸信介「俺が政治家やってるのは、この安保を改正して対等な条約にするため!

                       いまの日本は独立国とはいえない」

 

疑われる岸総理、盛り上がる反対運動

占領軍に巣鴨拘置所にぶち込まれてからたった4年で総理大臣まで上り詰めた岸総理。

あまりのスピード出世に国民の間では

 

「ひょっとしてアメリカと裏取引して無罪を勝ち取ったのでは?」

「バックにCIAがついていて、資金を出しているから選挙で勝てたのでは?」

 

などの噂もありました。

そんな岸総理がアメリカとの条約を改定しようというのですからきっと日本に不利な条約が結ばれるに違いない!!

 

国内では社会党・共産党および労働組合、学生、市民の中から対米従属の軍事同盟反対、基地強化反対の声が上がりました。

日本が再び戦争の道に進むことに対する強い危機感からの反対運動でした。

 

「A級戦犯の岸が日本をアメリカの属国にしようとしている!!」

 

 

学生が一人死亡。政治生命を賭けた岸総理

この時期連日国会はデモ隊に囲まれて物々しい雰囲気になっていました。

新条約の承認をめぐる国会審議は条約廃棄を訴える社会党の抵抗によって長引き、1960年5月19日には社会党議員を国会議事堂に入れないようにした上で新条約案を強行採決しようとしたりして安全保障条約をめぐる争いは激化していきました。

 

岸は警察だけではデモ隊を抑えられないと判断して右翼・ヤクザ・旧日本軍人を動員して対応しました。

もうなんとしてでも日米安全保障条約を改定したかったわけです。

 

「右翼、暴力団、なんでもいいから駆り出せ!!」

 

この政府の強行姿勢を受けてだんだんと日米安保反対運動は反政府運動の性格が強くなっていきます。

6月10日には大統領来日の準備のために来日したホワイトハウス報道官がデモ隊に囲まれたために政府がヘリコプターで救出。

この事態に岸は

「確かに国会議事堂の周りは何万の学生たちに取り囲まれているけれど、同じ都内の後楽園球場ではみんな普通に野球観戦している。映画館も満員だ。デモの参加者は限られている」

「私には声無き声の支持がある(サイレントマジョリティの)」

 

として、デモ隊は国民の総意ではないことを暗に示しました。

しかし事態は収拾せず、見かねた元首相3人が岸に退陣勧告、さらには大統領暗殺の噂まででてきてアメリカのアイゼンハワー大統領の来日が中止になるなど事態はさらに深刻になりました。

こんななか6月15日に国会構内で警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子という東大生が圧死する事故が発生。

若い女の人が死亡したことで安保反対デモは最高潮に激化し、岸総理は警察に退避するように要請されますが、

 

「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」

「俺は殺されようが動かない。覚悟はできている」

 

と拒絶して、怒った群衆20万人に囲まれた総理大臣官邸に残ることを選択します。

そして6月19日0時に日米安全保障条約は自然承認され23日に発効されました。

同日、混乱の責任を取る形で岸は辞める意志を表明しました。

 

・日本の内乱に米軍が介入できる。

・期限がないので米軍が永久に駐留することができる。事実上の永久占領体制になっている。

という日米安保条約が、

 

・日本の内乱に米軍か介入しない。

・日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う。

・在日米軍の配置・装備を変えるときは両国政府が事前協議できるようにする。

 

というふうに変わりました。

60年安保闘争のその後

7月14日、岸総理は次の総理に池田勇人議員を指名した直後、暴漢に太ももを刺され重傷を負います。

※この事件はテレビ放映されたのでYouTubeで検索すると見ることができます。

 

政治問題に精一杯打ち込んで結果を変えられなかった若者も多くは運動で世の中を変えることを諦め、学生運動は一旦下火になります。

かわりに学生たちが注目したのは個人の幸せの追求。つまり、お金稼ぎです!!

 

そして時代は池田勇人内閣の高度経済成長時代に移ります。

 

 

総括(そうかつ)

この60年の安保改訂は岸信介が政治生命を賭けて実現しました。

結果として日本はこの後軍事のことをアメリカに投げて経済成長に集中できるようになりました。

しかしそれは結果論であり、ひょっとしてタイミングが違えばアメリカの戦争に駆り出される未来もあったかもしれませんし、これから未来で日米安保条約が原因で戦争になる可能性もあるにはあります。

 

日米安保条約がなくても日本は経済成長した可能性もあります。

現在でも人によって評価が分かれています。

 

しかしここで私が注目したいのは、政策というのは見る時代やポジションによって成功か失敗か判断が分かれるということです。

高度経済成長期にお金持ちになった人間から見れば成功だし、

来年にアメリカ発で戦争になったら私たちにとったら失敗です。

 

ある政策が成功か失敗か判断するにはいろんな要素が絡みます。

だからみなさんもある政策を判断するときは、自分がいつの時点で誰目線で判断しているかに自覚的でいるようにすると良いです。

岸信介さん本人も「私のやったことは歴史が判断してくれる」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろうという言葉を残しています。

 

1960年からもう50年以上経っているので、この60年安保闘争について自分で調べて、岸さんを評価してあげると本人もうれしいのではないかと思います。

ソビエトやCIAの関与など、当時確認できなかった証拠も現在ならたくさん確認できるそうですよ?

近現代史シリーズ